ホーム   »  スポンサー広告  »  スポンサーサイト   »  実行委員一人一人の主張  »  何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思考することー

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思考することー

【あらかじめの注意】
私は話も長ければ、文章も長い。その点お許しいただきたい。ただ本気で考えたいという人には是非読んで欲しい。前提としてこの文章を通じて私は個人の自助努力の次元や「就活」の方法論は問題にしていない。また、こういう制度にすればいいと言うことも書いていない。つまり、「問題は個人のせいなのか、社会のせいなのか、何を変えたらいいのか」というレベルでは論じていない。ここでは、あくまで「何が問題となっているのか」を「就活ぶっこわせデモ」の個人的な分析から提起し、そのために私は何がしたいのかということを「主張」している。「答え」ではなく「問い」を発したいと考えている。それを考慮していただいた上で読んでもらい、そして建設的な批判をもらえればうれしく思う。

※「主張」カテゴリーに分類される文章は実行委員一人一人の「就活ぶっこわせデモ」に対する思いや意見である。実行委員会の総意ではないことにご注意いただきたい。

※「追記」しました!下記の「続きを読む」からご覧下さい。

【本文】
「就活ぶっこわせデモ」がここ最近センセーションを巻き起こしている。Twitterの「就活ぶっこわせデモ」アカウントには非難・罵倒・意見・賛同などたくさんのリプライが来ており、「デモ 就活」でタイムラインを検索すれば、分単位で情報が流れている。これは最初の爆発的に拡散されたツイートとニコニコニュースや2ちゃんねるに取り上げられたことが大きな要因であるようだ。

ニコニコニュース
2ちゃんねる

しかしながら、なぜたかだか数十人の学生が「就活ぶっこわせ」を掲げ、デモをすると表明しただけでこれほどセンセーショナルになるのか。実のところセンセーションを巻き起こした段階では「就活ぶっこわせデモ」に関する情報はそれほど多くなかった。にもかかわらずこれほどの反響読んだからにはその現状分析が必要である。その上で、「就活ぶっこわせ」と言ったとき、何を「ぶっこわす」べきなのか、ということについての私の意見を書いてみようと思う。

まず、多くの反応は「就活ぶっこわせデモ」というこの一言、あるいはそれを含んだ1ツイートを対象にしていたことがわかる。もちろん、情報が多くない中でそこに非難が集まるのは当然ではあるし、インターネットの「炎上」と呼ばれる現象の構造からしても多くの情報が必要でないことは明らかである(インターネットにおける匿名の審判性について本稿では多くを語るつもりはない)。しかし、問題はなぜ「就活」と「ぶっこわせ」、そして「デモ」という単語が「炎上」の対象となるかということだ。

面白い事実がある。「就活ぶっこわせデモ」の実行委員会は「就活ぶっこわせ」という名称以前から活動しており、単に「就活デモ」と名乗っていたときにはほとんど反応がなかったということだ。したがって、「就活デモ」の実質はさほど問題ではない。つまり、「就活ぶっこわせデモ」という名称に何らかの構造が隠されていると推察できる。

ここから二つのことが考えられる。すなわち、第一に「就活」という概念は何らかの道徳規範と強力に結びついており、またそれ自体規範形成の作用を持っているということだ。多くの人が持つその道徳規範が破られた場合には「社会」によって裁かれねばならないとされる。第二に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉はそうした規範を逸脱する社会的な言説であり、行為であるという観念が日本社会を覆っているということだ。規範としての「就活」概念が「就活ぶっこわせ」という名称によって侵犯されたため、人々はネット空間において「社会」を形成し、逸脱者、侵犯者を制裁するために過剰に反応した。もし仮に「就活」概念が規範と無関係、あるいは重要な規範でないとするなら、それほど過剰反応する必要はないだろう。

では「就活」と結びつく道徳規範とはいかなるものであろうか。大きく分けて二つの規範が考えられる。一つには、多くの人が「大人」になるために通らざるを得ない社会的儀式(イニシエーション)が存在し、それを受け入れなければならないという規範である。もう一つには、「労働」とは賛美されるものであり、文句を言わずに励むことこそが美徳であるという規範だ。言い換えれば、「就活」概念は「大人」に向かう儀式プロセスとしての規範性及び、「労働は美徳である」というアイデンティティの規範性と結びついているということである。このことは「デモする暇があるなら就活しろよ」とか「そんなことせずに働け」という非難からもよくわかる。

また、「就活」概念そのものも規範であり、規範形成として作用するものだ。どのような規範かと言えば、どれほど提示されたモデルに自己のアイデンティティを近づけることができるかという規範である。もちろん、「就活なんて茶番だよ」と心の中で思っている人も多いだろう。しかし、この「茶番」とは「わかっていながらもやらねばならない」から「茶番」であり、かつみんなが「茶番」であることを知りつつも演じることで「茶番」は確固たる体制としての地位を得ることができるのだ。意識的にしろ、無意識的にしろ、モデルや規範に対する従順さが磨かれる。事実、「就活」を行う学生の意識はそれを終える前と後を比べると、後の方が圧倒的に「仕事に関する諦め感」が強まるという。要は、「就活」システムの規範形成としての意義とは、「就活」を単一の個人のアイデンティティとして埋め込み、「茶番」を「茶番」として諦める身体を増産することである。

では次に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉が規範を逸脱するとはどういうことか。何を意味するのか。これには「政治的想像力」の問題が絡んでくる。少し考えてみよう。

一般的にいって、確かに「ぶっこわせ」というラディカルな言葉には規範に対して破壊的に働きかける作用を持つ。だが、それは実際に物理的・制度的な何かを破壊する行為とは明確に区別される。ごく単純な推論をしてみれば、「就活をぶっこわせ!」と言ったときに、企業の説明会に角棒を持って侵入して暴れたり、あらゆる就業の仕組みを立法権の行使によって制度的に廃止したりすることを意味しない。もっと簡単な例を持ってこよう。かつて自民党の小泉首相が「自民党をぶっこわす!」と言って党内改革に着手したが、これによって自民党はなくなっただろうか。答えは言うまでもない。要するに、「ぶっこわせ」というのは政治的・戦略的スローガンなのである(実際これだけ多くの人が関心を持ったのだからその効果は抜群であったろう)。

しかし、多くの人が「就活ぶっこわせ」と聞いたとたん、「拒否」反応を示した理由は、一つには「就活をぶっこわせ」という言葉の政治性を理解する「政治的想像力」が欠如していたことである。もう一つには、それが欠如してしまうほどに、「就活」アイデンティティが人々の思考・意識の中に強力な根を張り巡らされているということがある。これは本来「就活ぶっこわせ」という言葉は「就活」概念への直接攻撃なのではあるが、「就活」概念がアイデンティティとして内面化されている人ほど、自分という個人への攻撃と錯覚してしまうということだ。そして攻撃された(と勘違いした)自己を防衛するために「社会」というロジックを持ち出して反撃するのである。

では「デモ」という言葉はどうか。今回の事例では「デモ」に対して「ぶっこわせ」というラディカルな言葉が結びついたことによる反応もあったが(例えば「デモは支持するけど、名前は変えた方がいいんじゃないの」といった意見)、それ以上に「デモ」それ自体に対するある種の社会的な嫌悪感も見て取れる。例えば、「デモなんてやっても意味はない、変わらない」「デモは迷惑だ」「デモなんて恥ずかしい」等々。もっとも現代において「デモ」そのものの存在を正面から否定する人は少ないだろう。多くの人はわずかながらに受けた「民主主義教育」なるものによって「デモ」が憲法によって保障されていることは知識として了解している。

だが体験的に「デモ」を知らない、あるいはちらっと見たことがあるだけにすぎないという人が大半であろう(3.11以後徐々にその風潮は変わりつつあるが)。つまり、デモが実質的に遂行できる身体がないということだ(例えば、武器を知っていても、手にしたことがない人、訓練されてない人が戦争で十分に戦えないのと同様である)。

また、体験的に少しは知っている人も含めて、現在支配的な観念は、デモとは何かを変えるための「手段」である、というものだ。これは正しいとも言えるし、一方で間違っているとも言える。デモを「手段」とだけ見なす観念は「デモの目的は?」「その主張内容は合理的か?」「もっと明確にすべきだ」「ちゃんと組織しろ」「代案を出せ」といった言説を生み出す。しかし、「目的」「合理的」「明確」「組織」というのはあまりに一元的な運動のとらえ方であるし、明らかに懐古的で固定的な政治思考に基づいた発想である。2011年に世界中で起きた運動(「アラブの春」「OCCUPY WALL STREET」等)をみても、「デモ=合理的な手段」という構図だけではとらえがたい。

「デモ=手段」に過ぎないという発想は、デモを真剣に捉える姿勢というよりかは、むしろデモを予防的に抑止しようとする姿勢である。先に挙げたような、一見デモのことを真面目に考え批判しているように見える言説は、実はその言説の自己イメージとは反対に、「失笑」や「冷笑」に基づいた抑圧的な言説なのである。例えば、「代替案(対案)を出せ。それができなきゃ努力不足ではないか」という人がいる。しかし、仮にそれをすべての人に当てはめたら、デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう。

もちろん、デモが「手段」であり「大義」を持つことは前提として存在する。もちろん、「私のために反乱せよ、万人の最終的な解放はそこにかかっている」とは誰も言えない。しかし、かといって「デモには意味がない」と他者に対してシニカルになると権利もない。そこには少なくとも圧倒的な事実あるのである。すなわち、「今の状態は少なからずおかしい」という意識が存在するということだ。したがって、デモを「目的」と「手段」の二項対立図式は、一見寛容に見せかけた、抑圧的で不寛容な態度なのである。

さて、長くなってしまった。そろそろまとめよう。この文章のタイトルである最初の問い、何を「ぶっこわす」べきなのか?そしてなぜデモをするのか、について私なりの意見を述べよう。

これまで述べてきたように「就活」とはある一つの就業に関する形態に特権的に与えられた名称であり、作られた規範的概念である(それを日本式便乗型産業が利用している。例:就活塾)。そしてシステムはその「概念」が人々の思考・意識の隅々にまで根を張り巡らせることによって、作動・機能する。この特権的に構築されたシステムはこれまでのところかろうじて機能してきたが、現状はそれを利用する企業(一部)や便乗型産業が利益を得るための道具と化し、一部の「超有能」人間と規格化された従順な労働者を増殖させるとともに、必然的に一定数淘汰される人間を「承認」も「保障」もないまま闇の中に放置し続けるという構造の悪循環を加速させている。この問題は単に大学生だけの問題というより、高校生、院生、ニート、フリーター、既卒者、非正規労働者、新入社員、若手教員、障害者、過労死するまで働かされる会社員などといった範囲まで射程に入れた全社会的な問題として出現しているのである。悪循環の中で生成されていくものは極度の「自己責任」論だけであり、一方で奪われるのは連帯と共生の他者感覚、他者とのつながりの中での自己決定権(「自己責任」と「自己決定」は全く反対のものである)である。様々な抑圧構造があったにせよ、「日本の古き良き」点さえもが「自己責任」によって侵食されているといってもいい。

こうした悪循環を別方向にずらしていくにはどうしたらよいか?思い出してみよう。システムを作動させるのは一つに思考・意識の中に張り巡らされた「就活」概念であると言った。だとすれば、まさに「ぶっこわす」のはこの特権化された、規範としての「就活」概念なのではないか?つまり、物理的・制度的「就活」システムの総体を変革するには、まずもってこの「就活」アイデンティティを、「就活」概念にまみれた思考を「ぶっこわす」必要があるということだ。「就活ぶっこわせデモ」の名前の意義はここにあると考える。

「就活をぶっこわす」ためのより実際的な過程は、制度的・非制度的な方法を用いた脱・構築を行い、「就活」概念を相対化、あるいは別のものへと解体することである。一言で言えば「脱・就活」の志向・思考を目指すということだ。そうした点こそ専門家や政治家、官僚はもとより、全社会的な関心を持って考えられるべき事柄である。この具体例を全部列挙することなどとうていできないし(できるとしたら何も問題は起こっていない)、それをするのは本稿の目的ではないが、あえて例を挙げるとすれば、制度的なもので言えば、ギャップイヤーの設置、新卒一括採用の改善など、非制度的なもので言えば、就業者向けの自発的で実践的な労働法研究サークルの結成などがあげられよう。

ただし、常に念頭に置く必要があるのは、こうした制度・非制度の構築には運動が並行する必要があるということだ。運動なしでの制度論は「御上の改革」に過ぎず、悪循環を繰り返すだけである。議論する俎上がないままでは、意識高い学生の知的談義程度でとどまってしまうだろう。デモは少なからず人々に応答する責任を与え、議論へ向かう起動力を持つ。だから、まずは「就活ぶっこわせ!」と叫んだらいい。そこでのつながりから制度的なものも、制度的ではない新しいものも生まれるのだから。

最後に「デモ」に関して述べておこう。ではなぜデモをするのか、それで世界は変わるのか?気を付けねばならないのは、こうした問いの建て方はそれ自体誤った結論を導く可能性がある。デモや運動は「意味がある・ない」「役に立つ・立たない」「変わる・変わらない」の二元論に簡単に還元されてしまう(まさにその思考が問題なのだ!)。だが、どこか遠くの「未来」にある理想の社会、あるいはユートピアを目指して変革の意志を持つ時代は終わった。むしろ、変革は常に、今ある「現在」を絶えず別の方向にズラしながら、拡張することによって行われると捉えた方がよい。その闘いの中で「自由」を「民主主義」の傾向を最も鋭くすることが「変革」に他ならない。

また、次のことも重要である。変革の対象は他者(あるいは大きな「世界」)ではない、ということだ。言い換えれば他者を変えることを運動の一義的な目的に据えてはならない。なぜなら、実際に他者が、世界が変わったかどうかなどは比較した傾向の中で把握できるだけであって、正確に計ることのできるものではないからだ。重要なのは現在の「おかしさ」からまず自己に対して働きかけ、ある既存のものへの拒否とそこからの自立/自律を促し、運動の中で実践することによって自己を変革することである。他者の変革は自己の変革の副次的、間接的作用として現れるだけである(もちろん、これは理念型である)。「自己が変わりうる」と目の当たりにしたときから、すなわち別の思考で生きることができると感じたときから、そしてそうした自己の集合が現れるときから、変革は始まるのだ。

以上、「就活ぶっこわせデモ」の分析とそれへの私の思いを書き綴った。意見があれば建設的な批判をお願いしたい(なお、より個人的なことが聞きたい場合にはTwitter等でどうぞ。)


杉本宙矢(Twitter: @uchunohate )

早稲田大学文学部四年


↓コメントや批判を受けて「追記」しました。

追記:「『なやむ権利』ーコメントと批判に寄せてー』

【前置き】
どうも、「就活ぶっこわせデモ」実行委員会の杉本です。前に「何をぶっこわすべきなのか?ー別の仕方で思考すること」と題した文章をあげた者です。読んでいただいた皆さんありがとうございます。コメントやTwitterのリプライもいくらかいただいております。しかし、コメントの多くが、「よくわからない」というものであり、また、実行委員会の仲間にも「難しい」と言われてしまいました。私としてはあの文章を書いたことにそれほど問題性を感じてはいないのですが、ただ「わからない」という理由だけで嫌悪されるのも悲しいことだと思い、ここでやや補足的にもう一つだけ文章を載せさせていただきたいと思います。より具体的でシンプルに読みやすくしたつもりであります(私はどうにもストレートに言葉を伝えるのが苦手なようです)。どうか、先の文章の本意をくみ取っていただくのにお役に立てれば光栄です。

【本文】
 社会がますます複雑になるにつれて、個人の「やりたいこと」は今まで以上に「当たり前」ではなくなってきたように思われる。つまり、自分が何をやりたいのかは自明ではなく、発見される必要があるということだ。大学生ならば、在学中に学業や課外活動を通じて悩みながら、自主的・自律的にそれを見つけていくことになる。

 そうした中、現状では3年生の後期に「就活」が始まる。また、「就活」への準備という意味では就活セミナーや適職検査など、入学の前後からすでにその流れが始まる傾向が強まっている。つまり、ますます「就活」期間の早期化と肥大化が起こっているのだ。それによって、学生は否応なく「就活」の存在を前提としながら在学期間を設計せざるを得ない。学生生活が「就活」によって侵食されているのだ。例えそう考えない人がいるとしても、それは(現時点では)少数派であり、彼らもそのレールを完全に無視して考えることは難しいし、それに「就活」が定められたレールとして機能していることには変わりがない。実際のところ多くの学生が3年生の後期から一斉に「就活」をするというのが現状であろう。

 しかしながら、3年生の後半までに「やりたいこと」を見つけられるだろうか。大学生の問題として一般的なことを言えば、現状において「やりたいこと」が3年の後期までにみつかっているとは言い難い。なぜなら学生生活において学業と課外生活が本格的に始まるのは3年生以降のことであるからである。実際のところ、「やりたいこと」は卒論や卒業制作への取り組み、あるいは課外活動経験の蓄積を通じて徐々に発見されるものであろう。しかし、多くの「就活生」は卒論のテーマを決めもしないうちに、「就活」に望み、面接で「大学で勉強したこと」をしゃべらなければならない。要するに、「やりたいこと」がなんだかよくわからないまま、漠然と「就活」に臨むことになるということだ。

 「やりたいこと」がわからない・まだ見つかっていないと言っても、「就活」においては先を考えざるをえない。そのために「自己分析」などをやるわけだが、分析すべき「自己」がよくわからないままでは、いくら分析したところでたいしたものは出てこない。それでも無理矢理「自己」を見つけ出したり、「これが自己だ」と思い込んだりする。その「自己」を何とか面接官の前で振る舞う。そうして何とか強引に「就活」する。その結果、「就活」によってゆがめられた「自己」がアイデンティティとして固定化してしまう。多くの人は「これでよかったのか」と半ば悩みつつも、仕方なしにそれを受け入れていくように見える。つまり、本来自ら主体的・自律的に発見していくはずの「自己」が、「就活」の側から作られてしまうという逆説が起こる。そうしたできた「就活アイデンティティ」は就業後に持ち越されていく。

 では就業した後、つまり働き始めた後はどのような状況になるのか。多くの「社会人=会社人」が口をそろえて言うのは「働いていると時間がない」ということだ。働くことで忙しすぎて、考える時間がほとんどない。言い換えれば、働くことに意味や意義に関して、悩んだり、疑ったりすることがほとんどできないということである。するとそのまま職業・仕事に関することが重要な価値観として固定化する。つまり、強固な「労働アイデンティティ」が形成されるということだ。とりわけ日本の場合、仕事内容ごとの「ジョブ契約」ではなく、その会社に勤めるという「帰属契約」であるため、「労働アイデンティティ」は会社への帰属意識と強く結びつき、より強固なものとして固定される。

 こうしてみると、「就活」の際に形成された「就活アイデンティティ」はそのまま「労働アイデンティティ」まで繋がっていき、会社への帰属意識と結合して、強固な価値観として個人の中に結晶化することがわかる。もともと「やりたいこと」がよくわからず、漠然とした状態で「就活」に臨んだのであるから、結果的に固定される「労働アイデンティティ」は歪んだものになりやすい。そのため、どこかズレを持ち、違和感を感じながらも、仕事に従事し続けることになる。このズレから「なぜ自分はこの仕事をやっているのか?」という疑問がその個人の中で繰り返し現れてくることになる。しかし、そこには「なやむ権利」はない。十分に考える時間のないため、漠然とした不安につきまとわれながらも、ひたすらそのアイデンティティの中で働き続けるしかないのだ。一度そこで形成された「労働アイデンティティ」から逃れるのは難しい。こうして「就活」という敷かれたレールが硬直化した生の考え方の源泉として機能していることが理解される。

 では「労働アイデンティティ」の強化によって萎縮させられた生の多様性を取り戻すにはどうすればいいのか。「労働アイデンティティ」の源泉は「就活」というレールにあった。だとすれば、この「就活」のレールを崩していく必要がある。「就活」のレールを崩すとはどういうことか。それは「就活」という固定化された就業のあり方を各人が見直し、相対化するとともに、「就活」が各人の「やりたいこと」の発見する過程を妨げないようにすることである。「就活」をしなきゃいけないという規範的な考え方を変え、他にも様々な選択肢があることに気づくような取り組みが必要である。言い換えれば、個人の意識に根を張る「就活」という固定化された考え方を「ぶっこわす」ということである。また一方で、個人に意識が変えていくのと並行して制度的な見直しが必要となってくる。それは個人が「やりたいこと」を発見できるような状態を最大限確保することである。方向性としては在学期間と「就活」期間を分離していくということだ。具体的に言うなれば、「就活」期間をもっと遅くに設定する、さらには卒業後に「就活」という方向へシフトしていくことが求められるだろう。こうした動きが総体として既存の「就活」という固定化された概念を「ぶっこわす」ことになろう。

 最後にまとめてみよう。根本的な問いを端的に言うとすれば、この社会に「なやむ権利」はあるのか、あるとすればどの程度保障され得ているのか、それは十分だろうか、という問いではないか。「就活」が進むにつれて学生は「これでいいじゃないか」という諦め感を強く抱くようになるという。また、いったん就職した人が何か自分の「やりたいこと」とは違うと言って職を辞めようとすると周りからは「ぜいたくなことをいうな」といわれる。「就活」というレールの前に私たちは「なやむ権利」を奪われているのではないか。「なやむ権利」を十分に行使することができなければ私たちは闘い、挑戦する力を持つこともできない。すると「これでいいじゃないか」という思考の枠に閉ざされてしまう。しかし、社会の自明性が失われた時代。今や大企業に就職したとしても安定が保障されるわけでもないし、ましてや幸せが保障されるわけでもない。にもかかわらず、多く「就活生」はどうしても今わずかに残された「神話」にすがろうとしてしまう。だがその前に、「やりたいこと」を見つめ直そう。そのために、「なやむ権利」にむけて闘い、閉ざされた思考の中での「就活」をもっと相対化し、その上でなやんで、多様な生のあり方に向けての道を開いていくことが大事なのではないか。「なやむ権利」を取り戻すために、まずは私が叫びたい、「就活ぶっこわせ!!」と。


【終わりに】
 やはり堅苦しくわかりにくい文章になってしまったでしょうか。もしそうでしたら、申し訳ありません。今後精進して参ります。「なやむ権利」と題して書いたこの文章、そこには「権利」とは絶えず行使されなければ失われてしまうという前提があります。社会の中で「おかしい!」という権利は保障されていますが、「おかしい!」と言い続けなければその権利はなくなったのと同然です。「なやむ権利」というのもその類いのものではないかと考えております。
 さて、現在、就活ぶっこわせデモ実行委員会では日々の会議や交流を重ね、疑問点や問題点を洗い出している最中であります。より具体的な方向性に関しては今後発表されることになるでしょう。またこのブログでは実行委員一人一人が「主張」と題して、「就活」や「就活ぶっこわせデモ」に対する思いを書き綴っています。様々な意見の食い違いがあるも、少なくとも現状に対する「おかしさ」を感じて集っているのだと思います。是非この「主張」が皆さんの考えるきっかけとなり、そしてともに声を上げてゆくことに繋がればと願っております。ではまた。


杉本宙矢(Twitter:@uchunohate)

早稲田大学文学部四年


Comment
いやいや
http://hosyukakumei.blog.fc2.com/?mode=m&no=6&cr=defcec3e6613d45aa66bb17cfc91ae44
>覗いてみると誹謗中傷の嵐。でも私も昔は2ちゃんねらー(もう古い?)だったのでコメント欄でしばらく釣りを楽しみましたw
>すると勝手にファビョって暴言を吐いてくる人や、応援してくれる人で賑やかになりました。ありがとう。

こんな事してたり、中身のまるでないものを出してくるから、炎上するんでしょ
センセーショナルじゃなくて、ハム即が取り上げてそこでも委員が煽ったからだろ。
勘違いするな。
メンヘラかよ。
よくわからんが
・「ぶっこわせ」という単語をつけたことで、つけなかった頃に比べ爆発的に知名度が上がった
・「デモ」という言葉に生理的に嫌悪を覚える人が多い。そのためにちゃんと内容を見ずに否定されてる
・「主義・主張をはっきりしろ」という人達が多いが、そんなことしなくてもよい。問題提起して実際に行動することに意味があるんだ。実際、最近世界中で起こってるデモはそうだ
・就活を経験することで人々は矯正されている。そんなことは間違っている
・勝組、負組などの二元論になんでもかんでもすんのは間違っている
って感じ?

文章長いわりに内容があんまなくて読む気失せたわ
オレみたいなアホにでもわかるような要点おさえた文章に直してくれ
文章はややこしくていい。
なぜならシンパにのみ伝わればいいから。
デモは外部に向けたものではない。
なぜなら同士を集め、自己啓発するものだからだ。
という印象をうけた。

あとこの発言は
私的なものでありデモ団体全体の主張ではない、と読めるけれどここは団体としてのブログですよね。
どういう立ち位置での発言かハッキリした方がいいと思う。
うーん
申し訳ないのですが、
もう少し論理的な文章を書いてほしいです...

あと、個人的な印象でコメントしますが、
皆さんはあなたたちの行動を否定したくて、批判しているのではないと思います。
あなたたちが何を考えて、どうしたいか分からないから批判しているのだと思います。

あなたたちが何を考えているのか分からないから、理解したくて
『主張を統一してくれ』とか『軸となる考えを一つでも言ってくれ』っていう批判がコメントにでてるのだと思います。

そのコメントに対して
『メンバーそれぞれの意見が違うので統一できない』とか『就活の問題を知ってもらうためのデモなので、それぞれの問題を当日にデモで主張する』と返されたら、理解のしようがないです。

正直、今までのメンバー及び本記事を読んでも何が問題なのか私には分かりませんでした。

私(社会人3年目)は、知識がないこともありますが、就活や新卒一括採用の何が悪いのかよく分からないです。
あと、一番良く分からないのが、就活の話から過労死の話につながっていること。両者は関係があるのですか?(文章を読んでもつながりが分からなかったです。申し訳ありません。。。)



正直言うと訳の分からないこと言っている人達に訳の分からないデモをされるのは何か気持ちがよくないです。(先日のフジテレビのデモはデモをする人の気持ちが分かったので否定的な感情は生まれませんでした。)

要するにあなたたちが何をしたいのか『分からない』んです。
(すみません、私が知識がなく、頭が良くないもので。あと、建設的な意見でなく、こちらも申し訳ありません。)

何かしら強い意思は感じますので
頑張ってください。


本旨から外れるんですけど、ギャップイヤーって、その間の生活費はどうするんでしょうか。国が保障するんでしょうか。親が負担するなら、ますます経済的に余裕のある人しか大学に行けなくなりそうですね。導入している国では、どうしているのか気になりました。自分でも調べてみます。
>多くの人が「就活ぶっこわせ」と聞いたとたん、「拒否」反応を示した理由

ここで発表した方の内容に真剣さが見当たらず、学園祭のノリだったからです。
デモを発起した理由は人それぞれなんでしょ?
だったら拒否反応を示す理由も人それぞれなんじゃないの。
批判者の人それぞれを考えないのはなんで?
未だに批判される理由を解ってないの?
アスペ?

頭いいならも要点しぼってわかるように言ってほしい。
長いだけで内容がない。
ほとんど自己解決の極み、批判者を理解させようなんて微塵も思ってないのが文章に表れてる。
何を考えているか知りたくて読んでるのに、ここを閲覧するそういった人の心を揺さぶらずして、あなたたちが訴えたい相手の心が動くのか。

こちとら言い分の添削してんじゃねんだよ。
批判者煽ってどーすんだよ、どいつもこいつもアホだろ。
就活ぶっこわせ、だと就活自体をなくせと勘違いしてしまう。
このデモ活動は名称からして失敗しとる。
時期的なものはあったが、原発反対ほど分かりやすいデモの趣旨と主張はなかったな。
「就活ぶっこわせ」でも何でも良いけどね。
「就活に問題がある」と思っていること自体がまず間違っているんだから、タイトルの善し悪しの話はどうでもいいよ。

結局今の募集状況には何一つ問題ない。充分に社会に価値提供できるか、その見込みが充分にあるならば雇われるよ。それどころか面倒な就活しなくても自営業、個人事業、起業で生きていける。

こんなデモいくらやっても、ゆとり世代の評価が落ち、また、社会に価値提供できないヤツは餓死に近づく、それだけ。

ゆとり世代はただでさえ「教えるのが上司の仕事でしょ」なんてトンデモな責任転嫁で不評な世代。それに加えて「就活が大変なのは社会のせい」こんなバカすぎる責任転嫁は前代未聞。

バカみたいに画一的にユニフォーム(スーツ)きて、バット(エントリーシート)準備して、ピッチャーに向かう(笑顔)、なんてことやって結局ボールも打たないし進塁する気も見せない。それで「点が入りません、ルールが悪い」(就活大変、社会が悪い)。バカ言うのもほどほどにしろ。

会社は、会社にとって役立つか、役立つ見込みがあるヤツしか雇わない。
当たり前だろ。
今、就活生が行うべきは、社会に価値を提供できる能力を身に付けること。

「あなたを雇用して弊社にどんなメリットがありますか」

これが本質。
何もメリット提供できない無いくせにいい加減な応答で逃れようとしているからダメなんだよ。
何も無いならはっきりと「ありません。役立てるようになってから出直してきます。」で消えればお互いに時間のムダにならずに済む。
何も無いくせに社会に寄生しようとマニュアルどおりに逃れようとする。だからダメなんだよ。だから運悪くババ引いてくれる会社を求めて50社も100社も回ることになる。
まず社会に価値を提供できる見込みがあること、それが雇用されるための大前提。その次にスーツや笑顔。

いくらスーツや笑顔を完璧にしても、社会に価値提供できる見込みがなければ雇われることはない。

まぁ見当違いなデモやりたければ好きなだけやればいい。
どれほど我が侭を喚いても、結局は社会に価値を提供できるようにならなければ餓死に近づくだけ。

勝手に餓死に向かって走ればいいよ。好きにしな。
社会に何も提供せずにただ寄生しようとしているウンコ製造生物が餓死したって社会には何も関係ない。
苦言
ここで改めて建設的な批判を求める前に、まずは寄せられたコメントへ回答をすべきでは?

これまでの記事にいくつもの建設的批判が届いているというのに、それに対して応答せずエッセイをダラダラと書き綴るというのは真摯さに欠けています。
建設的関係を築こうとしていないのはそちら側でしょう。

たかだか数十のコメントを精査し回答することすらできないのでは、運営部門としての力量に疑問を抱かざるを得ません。
第三者から主張趣旨へ賛同を得たいのか、それとも言うだけ言ってあとは知らん振りをするつもりなのか、どちらなんですか?

今あなた方に求められていることは、あなた方の主張を深く理解したいと思っている人々が抱いている疑問に対し、真剣に回答を返すことです。
きちんと向き合って下さい。疑問を吸い上げて下さい。きちんと運営して下さい。
>例えば、「代替案(対案)を出せ。それができなきゃ努力不足ではないか」という人がいる。しかし、仮にそれをすべての人に当てはめたら、デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう

デモに参加する者にとって「なぜデモに参加するのか」という目的意識は必要だと思う。
もちろんあらゆることに精通していないといけないわけではないが
最低限「自分はなぜここにいるのか」くらいは考えておくべきかと思います。
学者のように理論武装しろではなく、必要最低限の理論武装はするべきかと思います。

「ぶっこわせ」は一種のスローガンであり、「なくなる」という意味ではないと。
就活の概念を「ぶっこわす」のは構わないが、変革を別の言葉に置き換えただけの
スローガンにすぎないわけか。

そしてそのためには「運動が並行する必要がある」と。

>議論する俎上がないままでは、意識高い学生の知的談義程度でとどまってしまうだろう。デモは少なからず人々に応答する責任を与え、議論へ向かう起動力を持つ。

議論をするのは構わないが、「就活ぶっこわせデモ」に反応した人を「制裁」「反撃」という名称で
レッテルを貼っておいて議論は果たして成立するのか?
おそらく賛同した意見以外はこれに当てはまるのであろう。

そして

>デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう

理論武装を放棄しているのに議論ができるのかどうかが謎である。
まして統一した見解がないわけだし。
その上で

>まずは「就活ぶっこわせ!」と叫んだらいい

というのは些か乱暴ではないか?少なくともなんとなく賛同した人間にとって
その回答は突き放しているのと同じだと思える。
それこそいわゆる「自己責任」というやつだよね。


この文章自体は非常に身勝手だと思います。
もちろん実行委員会として統一した見解がない以上
これが実行委員会の総意ではないことを踏まえてもね。

たぶん当日ビデオ行くんでよろしく。つまんないと帰るけど。
本当は『残りの期間遊びつくしたいから早く就活終わらせたかったのに、終わらせる事が出来なかった』から騒いでんじゃないのか?
『内定』を『残りの期間遊ぶための許可証』かなにかだと思っているんじゃないの?
企業も望む人材を得るのに苦労してるみたいですよ。
ちなみに凄腕のハッカーは、ハッキングした企業からのスカウトも来るそう。反抗心は必ずしも社会にとってマイナスじゃないということ。
どなたかが既に書いてくださっているように、皆が納得するよう、きっちり運営ください。
いまのままでは自己満足のマスターベーションにしか過ぎません。


2012年4月入社予定の新卒採用について、十分な人数を確保できず、
不満を感じている企業の割合が41・6%に達し、前年より11・9ポイント増加したとの調査結果を、就職情報会社マイナビがまとめた。
 まだ就職先の決まらない学生も多数いるが、
調査を実施した同社のHRリサーチセンターは「基準を満たす学生がいなければ、定員に達しなくても採用を終える傾向が強まった」と話している。
ttp://www.chunichi.co.jp/s/article/2011110501000383.html
同意できる部分もあり参考になりました。なので、あえて少しばかりの意見をさせていただきたいと思います。

文章の始めにある「読みたくない、面倒くさいという人は読まなくても結構である」という部分はいらなかったと思います。

団体のブログにおいて団体の一員として意見を述べる時、書き手は来訪者に「読んでいただく」という点を気をつけなければなりません。なので、このように文章の始めにあからさまな拒否を書かかれると読み手は高圧的な印象を受けてしまい、いい内容であっても押し付けがましく感じます。

また、文末の「つまらない非難・あげあしとりには応答しません。無駄な暴力に対抗すると疲れるので」という部分についても同じ事が言えます。

どのような文章でも、多かれ少なかれ誹謗中傷、中身の無い意見は送られてきます。そういったものへの応答はしないのは当然の対処なのですが、それはブログにおける諸注意などで書くべき事なので、コラムごとに書く必要は無いと思います。

さらに、あからさまな拒否に加えて、個人的ともとれる理由が書かれているので、そこに反感を感じる人も少なくないと思います。特に「疲れるから」といった理由では人の反感を買いやすいので、理由として適切な表現とは言えないと思います。


言い訳がましいですが、私は批判したいがためにこれを書いたつもりはありません。私自身、筆者の意見に同意するところがいくつかあり、多くの人に読んでいただくために、あえてこのような意見を述べさせていただきました。
社会は学生が考えてる以上に『非情』であり、また『自由』なのだよ。
今回のデモが大きく取り上げられた理由
今回のデモが大きく取り上げられた理由として、確かに「デモ」や「ぶっこわせ」などの言葉の異質さと一般的湖底観念も関係しているとは思いますが
実のところはメディアが面白半分に取り上げたのが大部分で、私は割とよく書き込んでおりますが、個々人はあまり関心をもっておらず、特に批判の声に関しては軽口を叩いているだけではないでしょうか。
社会問題として焦点が当てられているというよりも、現段階ではただ目立っているだけで、「何かが変わる」という期待や「議論すべき重要な事柄」と思っている人は極めて少ないのではないかと思います。
その一因としてはやはり思想が一貫性や具体性を欠いていることや、メンバーの中に公的文書(団体として発表しているBlog記事)としてふさわしくない軽い表現を使っている者がいることが挙げられるでしょう。
少なくとも最後に挙げた事項に関しては内部で気をつければ解決できると思いますが。
通りすがり
就活が上手く行かない若者が増えているという問題に
多かれ少なかれ関連がある問題も多々あって
意外とこの問題の根は深いみたいなので
馬鹿騒ぎではないガチなデモに出来るよう頑張って下さい。


学生運動時代の方曰く
「私が生きてきた頃に限った話になってしまうが…
世の中を良い方向に導いてきたのは学生だったぞ」
とのことですし。

ほかの方も書いてらっしゃるように目的が分からないです。

このコラム?日記?も長すぎて…
要領を得ないというか、

書いてる方自身も分かっていないんじゃ?
かまってちゃん?
と言う印象を持ってます。

デモをして社会にどういう対応をとってもらいたいのか教えて欲しいです。
頭悪いので簡単にお願いします。
デモをやりたいならもっと簡潔に物事をまとめられるようになりなさい.まさか,デモでこの通り演説するわけでもあるまいに.

あと,統一的な見解は持つべきでは無いみたいな論調になっているが,せめてデモの主催者サイドでは持っておくべきだろう?
デモっていうのは,ある統一見解があってそれに賛同する人で構成されるべきじゃないのか?これを外れたらただの烏合の衆,デモではなく単なる暴動.デモをするのも権利だというなら,きちんと文化的な手段を以ってやってくださいね.

以上が学園祭的なノリと言われる所以の一つでしょう.
確かに表面上中身の無い批判もあるかもしれないが,それはこのデモの「言いようの無い不満」と大差ないですよ.批判に対して論理を以って対抗できないと,あなた方の嫌っている「批判」と全く一緒です.
だだこねているんだ
 マリーアントワネットが、「パンが食べられないのならケーキを食べれば」と言ったそうだが、就活ぶっこわせデモの人たちは、「パンなら食べられるけど食べたくない。私がケーキが食べられないこの世の中がおかしい」と言っているみたいだ。パンも食べられずに、必死で生きている社会的弱者が山ほどいるのに。前のコメントにもあったとけど、デモを扇動している人たちが頭を踏みつけている障害者他社会的弱者のように、デモを扇動している人たちも「超有能」な人とやらに頭を踏みつけられる時代が来ただけでは。時代の変化が受け入れられないのかな。自分が踏むのは許せて、自分が頭を踏まれるのは嫌なんだ。
 君たちは大人しく、非正社員として働くか、正社員になるなら中小零細企業、ブラック企業の門を叩きなさい。そこで生きるのもまた人生だろ。就活ぶっこわせデモを扇動している人たちというのは、自分だけは社会的弱者(障害者、非正社員、ブラック、中小の社員)になりたくないとか、プライドだけは超一流で、大企業の正社員になれる自分と変わらない同世代の人たちに嫉妬し、そして自分の欠点は棚に上げて、採用する側の企業に筋違いな怒りをぶつけているんじゃないかな。正直な反論を待っているよ。
学生には三つの選択肢がある。

不平不満を騒ぎつつ無意味な要求を続けるか、おとなしく奴隷になるか、あるいは自分なりの道を進むか、だ。

何を選ぶのかは個人の自由。
しかし、その先に関しては誰も保障しない。
本当の意味での「就活」もしていないんだろうから、「就活してます」なんて前提の話やめたら?

本当の意味での「就活」は大学入る前から始まっているよ。
より良い就職、より良い将来のために大学入ったんだろ?
大学入る前から職を得るための競争が始まっていたこと忘れてるのか?
遊び呆けて3年の段階で頭すっからかんの状態なのに、周りの真似して職探ししてるだけじゃダメに決まってるだろ。

ずっと将来のための競争の最中にいるってことを忘れていなければ大学入った直後から、職を得るための本当の就活をずっと続けていたはず。
資格試験やTOEIC、自分の望む業界へのコネ作り、大学の勉強を通して自分自身が社会に役立つように専門知識や応用力を身に付ける、全ての活動が卒業後の進路のための活動。
こういうのが本当の就活。

ずっと遊んでて、大学の勉強は大卒資格を得るためだけだと勘違いし、レポートや授業も最低限の労力でクリアして極力サボって何のために大学に来たのかも忘れて遊び呆けて、3年になって急にスーツ着て合説出席して、これぞ就活だ、この就活は社会的に問題がある!なんてヤツはまさにアホの極み。そんなのは本当の意味の就活ではない。
就活してます、なんて言うのはあまりにも図々しい。

企業から見たら必要な年度には必要なだけソルジャー集められる、使い捨てソルジャー確保のための都合の良い便利な人材プール、その中に自ら飛び込んでいるだけ。そりゃキツいだろうな。でもそれも自分で選んだ道だぞ。

いまさら気付いてももう遅い。
大学入る前、入った直後、そして3年まで、先を見て自分を磨き続けたヤツが勝つ。サボっていたヤツは負ける。

自業自得。

それでも未来は平均的には高卒よりはマシなんだから、がんばった大卒よりは厳しい未来だろうけど、高卒よりはマシと考えてそろそろあきらめたら?

人生で最も重要な3年間を遊びでムダに使い果たした自分が悪いんだよ。
思うにあなた方は、一般に公募してデモを行うには時期尚早なのではないでしょうか?

いままで何人かの方々が主張を述べてらっしゃいますが、どれも無駄に長い割には内容が無く的外れなものに感じられます。
皆さん、それぞれの主張を持っているからと免罪符のように仰っていますが。お互いの主張について団体内で議論していらっしゃるのでしょうか?どなたも精査されているとすれば余りにお粗末なものだと思います。

また一番問題なのは、コメントに多くの建設的な意見があるにも関わらず、なんの回答も無く的外れなことを仰るのは何故なのでしょうか。
これ等の意見を聞いて、そのような考えに至るのであればもう少し広い観点を持つべき様に思いますし。意図的に無視しているのであれば、問題を提起する側として如何なものかと思います。おそらくあなた方の主張を聞いたものが感じるであろう意見が多くあるのではないでしょうか。

もはや主張に関して云々というより、団体のありかたとしてあまりに未成熟なように感じます。今一度、運営に関わる方々で議論を行うべきではないかと思います。
文系は内定とれば遊ぶんだろ?
文系の論文なんて、よほど優秀な奴の集まるようなゼミじゃない限り、殆どガキの読書感想文程度だ。

俺は理系で新材料やっていたが、ほぼ毎日、必要とあれば休日でも研究室に来て実験しなきゃならなかったし泊まりも当たり前だった。それでも僅かな空き時間を使って就活してたんだぜ。
一方文系に行った知り合いなんか、内定とったらほとんど学校に行かなくなったにもかかわらず、たかだか原稿用紙50枚程度の卒論がキツイだのと愚痴ってやがった。
そいつに俺の研究を『自分より楽だ』なんて言われた時は、本気で叩きのめしに行こうかと思ったくらいだ。

文系は内定後に思う存分遊べるだけ、まだ恵まれてると思え。
またもやいでよ長文!
>例えば、「代替案(対案)を出せ。それができなきゃ努力不足ではないか」という人がいる。しかし、仮にそれをすべての人に当てはめたら、デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう

代案だせやについてようやくアクションあったね遅かったね!
なんか最近真面目に書いてるみたいだねwww最初からそう書けばよかったのにwwwwwwwwwwwwww

就活については真面目に考えています。
問題点があることもわかっています。
だからこそふざけた文面で書かれてすごく不快でした。

こちらの文章を読んでいろいろと考えた末に今の形になったことは理解しました。
ですが、以前の記事の内容で受けた「思考停止している人間の率いる集団」という印象は変わりません。そういった集団が「デモ」という行動をとることに大きな不安を感じます。

<理由>デモの参加者を集めるために、主張をあえて抽象的な内容にしている。
 →やるだけ無意味でそれこそ社会の迷惑。参加者ばかり増えて、社会に問題提起するという目的は達成されない可能性が大きいと思うため。

なぜかというと、「就活の<問題点>について考えるきっかけになってほしい」とおっしゃっていますが、そもそもあなた方は、あなた方の言う<問題点>を問題点と認識していない、問題点だとわからない、という人は社会に大勢いるという<前提>であなた方はデモを行うんですよね。
このブログのコメントを欄に、たくさんの書き込みがあります。あなた方が「就活の問題点について考えて」と言っても冷ややかな視線を向けているものが大半なのにはお気づきだと思います。これはネット上の、書き込みをしている人の、批判的な人の、ごく一部です。
あなた方が、「問題提起をしたい対象」です。
ですが、あなた方は「考えて」というだけでそれ以外の「参考資料」も「意見」も出していません。
ましてや、「就活のなにに異議を言いたいのか」という質問(コメント欄では、「就活のなにとぶっこわすの?」と書かれていたと思います)に、「個人個人によって違うので、言えませんし書けません」と答えています。

個々人で様々な意見があることは当たり前です。
でも、活動の指針を「就活が学生をあらゆる点で苦しめているから」という浅くて抽象的なものでなく、「主に〇〇が学生の就活を圧迫している」という「改善点の根っこ」を出してください。
たとえば、お金、時間、採用人数などなく、もっと深い根本の問題です。
「個人個人で理由が違うから」という理由を聞いているのではありません。
「時間がない」ならば「なぜ時間がないのか」、
「お金がない」なら「なにが費用を圧迫しているのか」、
「採用人数が少なすぎる」ならば、これは日本のGDPや産業の空洞化など企業と政府との間のあれこれが絡んできますのでデモを行って問題提起することでどうにかなる問題ではないので政府に経済政策を求めるしかないように思います。
このように問題点を深く追求していくだけで、「どの常識が弊害になっているのか」が見えてきます。
その常識に疑問を投げかけるというかたちでも、十分に「団体で統一された一つの指針」になりえる上に、「問題提起をする対象」の社会の人々への考えてもらうための資料になるのではないでしょうか。
なにも参加者全員でやれと言っているわけではありません。
ここに書き込みをするメンバー、団体の中枢メンバーだけでもいいと思います。指針の整合性は、それこそツイッターで意見を募れますし。

まあ、
>デモを「手段」とだけ見なす観念は「デモの目的は?」「その主張内容は合理的か?」「もっと明確にすべきだ」「ちゃんと組織しろ」「代案を出せ」といった言説を生み出す。しかし、「目的」「合理的」「明確」「組織」というのはあまりに一元的な運動のとらえ方であるし、明らかに懐古的で固定的な政治思考に基づいた発想である。

とありますので、私の考え自体が「懐古的で固定的な政治思考に基づいた発想」になるわけなんでしょうが。
くだらない短大生の疑問ですので、耳元で蚊が鳴いてるくらいの気持ちで流してください。

あと、文章はコミュニケーションのツールです。
文学部ということなので、骨組みに肉づけをする癖がついてしまっているのでしょうが、多すぎる肉づけと難解な言い回しは読む人を選びます。
多くの人に意見・主張などを伝える場合にはそれにふさわしい言い回しが必要です。
とくに、こういう団体公式の場の文章は大衆向けの性格が求められるのではないでしょうか。
ここに書く以上、あなたの両肩にはこの団体の名前がかかっています。
読む人を選ぶ文章しか書けないと前置きする前に、まず大衆に読んでもらう前提で文章を書いてください。大変読みにくいうえに何が言いたいのか論旨がぼやけます。
『アルバイト』、『サークル』だけでシューカツできるお気楽どもが、偉ぶって『卒論書く暇が無い!!』とか、笑えるよ。

大変恐縮ですが、権利の主張をするのは結構ですが、権利の範囲や内容が曖昧です。
また、あなた(あなた方)は日本の国民であり各学校の学生として、社会的に義務を果たしていますか?
申し上げにくいのですが、あなたの文章は、他者が見た場合に言葉遊びをしているように見えます。
理由は、主義主張が明確に示されていない。
原因・理由・目的・対象、それらの物が不明確です。
たとえ話や曖昧な主義主張を引き出す為の長文よりは、端的な原因・理由・目的・対象を明確にされる事をおすすめします。
「就活ぶっこわせデモは何をぶっ壊すのか。僕なりの解釈」に対して
 ブログへのトラックバックありがとうございます。「就活ぶっこわせデモは何をぶっ壊すのか。僕なりの解釈」拝読させていただきました。まず「解釈」していただいたことに大変感銘を受けております。なぜなら、私の文章は「答え」というより「問い」を発したいと考えていたからです。こうして建設的な批判をいただけたことをうれしく思います。
 多くの方からは(実行委員会の仲間含め笑)「よくわからない」「難しい」といわれてしましました。ですが、私としてはすぐに「答え」を出そうとしてしまうことこそ「就活」の仕組みが推奨している思考方法ではないかと考えており、ならばそれに対抗する思考方法を身につけなければならないと考えていたのです。文章はそれに合わせた書き方をしたつもりでした。
 私自身も「就活ぶっこわせデモ」が今後どのように変遷していくかは予想できないところもあります。ですが、まずは「問い」を広げていくことが必要ではないかと思っております。現在実行委員の中でも様々な議論があり、模索中であります。間もなくより具体的な方向性を打ち出すことになるかと思います。拙い者ですが、今後ともともに考えてゆけたらと思っております。
あなたの真剣さや何かを為そうとする姿勢には頭が下がります。仰っていることもわかります。
しかし、『だからこそ何を為そうとしているのか』が一向に伝わってこない。

権利や主義を主張するのは誰一人として妨げることはできません。
しかしその権利や主義がどのように侵害されており、それが故に“誰”に“何”を発信しようとし、そして“何を果たそう”としているのか、それらを伝えられなければただの自己満足で終わるということをいつになったら理解してくれるのでしょうか。

どなたかが書かれてましたが、個々の主張が様々であることは至極当然のことです。しかしそれはデモの主張が枝葉末節で良いということにはなりません。
そこは運営がどれだけ皆の意見を集約し、一本の幹に据えられるかという腕の見せどころであり、回避できない必須の責務でしょう。

主張に幅があることは、デモの魅力を増すことには繋がりません。むしろ、勢いを削ぐ結果になります。
だからこそいくつもの批判が届き、それだけではなく注目から反れつつあるのではないでしょうか(賛否のコメントが尻窄みになっていることからの個人的な推測です)。

デモは理想を高々と叫ぶくらいがちょうどいいです。その方がひいては後身や社会の為になりますから。しかし、運営部はできる限り現実的である必要があります。そうでなければ団体は成り立ちません。

いろいろと偉そうに意見させていただきましたが、応援しています。

「何をしてくれるのか」。
皆の支持不支持の判断は、その先にあることを意識して頂ければ幸いです。
あなた、本気で言ってるの?
「私自身も「就活ぶっこわせデモ」が今後どのように変遷していくかは予想できないところもあります。ですが、まずは「問い」を広げていくことが必要ではないかと思っております。」

あなた、今の時期になってもこんな事、本気で言ってるの?
あなた方が「問い」を言うのに対して社会から返って欲しい「答え」は無いの?

今後どのように変遷していくかは予想できない?ではなくて、どの様に進めるか考えなさいよ。

あなた方は、随分無責任なんですね。
もう無理だから止めたら?
一過性のお祭りなら村祭りにでも参加しなさい。
お祭りではなくて社会活動をするなら本気でやりなよ!

すっかり呆れてしまった。
さようなら
追記も抽象度高いけど、理解できた。
なやむ権利、納得。
随分大掛かりな事をやろうとしている割に、内容はかなりいい加減ではないですか?
自分達の就職活動が上手く行かなかった事、もしくは展望を見出せない状況を社会構造やシステムのせいにしたいだけなのでは?
そもそも「問いを発したい」と言う事に関しても、「その他大勢の人に丸投げする」とも取れます。
色々な方法を自分達から提示しないで言いたい事だけ言っているのであれば、それはあまりにも子供じみていて幼稚な行為ではないでしょうか。
問いと共に自分達の意見も述べるべきでは?

また、これはどうでも良いのですが、内容の密度に対して文章が無駄に長く、遠まわしでわかりづらいですね。
正直な所、現在の大学生がこの程度のレベルだと考えると寂しくなってしまいます。
確かに悩む権利は誰にだってあると思います。
ただ、何事にも区切りが必要でいつまでもダラダラ悩んでいていいもんでもない。

そもそも何故、就活が早いという話になるのか若干違和感があります。
人生でぶち当たる出来事の中で、準備が整っていない突然の出来事の方が多いです。就活なんてあること最初から分かってると思います。三年時の就活が学生生活を圧迫すると仰ってますが、高卒で働いていたり、専門学校に通い自分の道を決めている人がいるなかで、人それぞれ事情はあれど三年間もなにやってたの??と思ってしまいます。多くの場合、目的を決めない連鎖の結果その状況に至っているだけではないでしょうか。
もちろん強要されるものではないし、そのまま悩み続ける選択もありだと思います。ただ区切りをどこでつけるかだけの違いです。

就活を遅らせるメリットとデメリットをどうお考えなのでしょうか?
自分に出来ることを全てやって、それでもなお就活開始が遅くなることで得られるものがあるならば、そうするべきだとは思います。
ただ、やれば出来ることを辛いからと余裕を持たせよう!とした結果、教育現場でなにが起こったのか。言うまでもないことだと思いますが。
Trackback
「就活ぶっこわせデモ」 就職活動に疑問を抱く学生らが企画 | ニコニコニュース「御社が第一志望です」に効果はあるのか。面接で常に笑顔でいることの意味は? そもそも企業はなぜ
「就活ぶっこわせデモ」 就職活動に疑問を抱く学生らが企画 | ニコニコニュース「御社が第一志望です」に効果はあるのか。面接で常に笑顔でいることの意味は? そもそも企業はなぜ
「就活ぶっこわせデモ」 就職活動に疑問を抱く学生らが企画 | ニコニコニュース「御社が第一志望です」に効果はあるのか。面接で常に笑顔でいることの意味は? そもそも企業はなぜ
このブログでも何回か取り上げている「就活ぶっこわせデモ」。「就活ぶっこわせデモ」の公式ブログも何回か更新され、最近記事では「何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思...
このブログでも何回か取り上げている「就活ぶっこわせデモ」。「就活ぶっこわせデモ」の公式ブログも何回か更新され、最近記事では「何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思...
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

「就活ぶっこわせデモ」実行委員会 (就活デモ@東京)

Author:「就活ぶっこわせデモ」実行委員会 (就活デモ@東京)
 こちらは2011年「就活ぶっこわせデモ」のブログです。私たちは2011年11月23日(水・祝)、勤労感謝の日に「就活ぶっこわせデモ」を実施致しました。当日はたくさんの方々にご参加頂き誠にありがとうございました。実行委員一同より厚く御礼申し上げます。
 このデモを通じてより多くの方々に就活を巡る問題について考え議論する機会、あるいは就活に疑問を持つ方々が改めて自分の意見を主張する場を提供できたのであれば、それだけでもこのデモを行った価値はあったものと私たち実行委員は考えております。

 さて、2011年市井の皆様を度々お騒がせしてきた「就活ぶっこわせデモ」ですが、2012年1月18日の対談イベントを最後の活動とし、我々就活ぶっこわせデモ実行委員はひとまず解散致します。ご協力下さった関係者各位の皆様方には、この場を借りて厚くお礼申しあげます。本当にありがとうございました。
 今後就活問題に関する活動は「就活生組合」がその任を担っていく予定でございます。よって今後の活動ついてのご質問、及び取材依頼等のお問い合わせは、「就活生組合」方にお願い致します。


就活生組合

http://www.shukatsu-union.org/

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
最新記事
Twitterの更新
「就活ぶっこわせデモ」のTwitterです。
どんどんつぶやいていきます。
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。