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「叫び」の「寿命」について

「就活ぶっこわせ」デモは単に学生達の、それも「全体」ではなくある「一部分」の学生達のある一部分の学生達によるある一部分の学生達のための行為に終わるであろうか。「終わる」と、そう言う人もいる。特に反対者はそう言う。そして反対者がそのように「終わる」と言うことは反対者の有り様としては完全に正しい。何故って、もしも本当に「就活ぶっこわせ」デモが単にある一部分の学生達のある一部分の学生達によるある一部分の学生達のための行為として終わるとするならば、やがて来る11月23日に「就活ぶっこわせ」デモの示威行進の参加者と支持者≒潜在的参加者を構成する者達の「就活ぶっこわせ」という「叫び」はただ空気を振動させるのみなのであって、ゆえに傍観者はただ生理学的にのみそれを「聞く」と推測できるから。言い換えれば、そうした「叫び」は極めて短い、流体力学的に計算可能な次元での「寿命」しか持たないと推測できるから。
 しかし本当に「終わる」のだろうか。
 本当に?
 ある時点で社会内部に生成された現象というのは、常に、社会という論理機構がその時点における論理的帰結として生成したものである。「就活ぶっこわせ」デモ実行委員会の委員である学生達がデモという言葉で「批評」しようとした、新卒一括採用制度を中心に構成された現代日本の「就活」という現象も、当然、そうである。
 ということは。
 ということは、だ。
 文章を挑発的なものにするため、結論から述べるが、「就活ぶっこわせ」デモがある一部分の学生達のある一部分の学生達によるある一部分の学生達のためのデモとなることはないだろう。
 というのは仮にデモという「言葉」を用いた現代日本の「就活」というものに対する「批評」が、ある一部分の学生達の、「就活」に対して発した問いから開始されたものだとしても、その「批評」が「批評」として完成されるためには、そのような「就活」というものを生成した論理機構=社会一般に対する「批評」にまで展開されなければならないのであり、そして展開しうるからだ。
 何が言いたいのか?
 つまり「就活ぶっこわせ」デモという「批評」行為の内で叫ばれる「就活ぶっこわせ」の「叫び」は、単に空気を振動させるだけではなく、「ある一部分の学生達」以外にも、「就活」に対する「批評」が社会に対する根本的「批評」として自己を展開する瞬間まで、連鎖的に「届く」だろうし、その「批評」行為を引き継ぎ、自分達の「批評」行為を構築するための参考にしたいと考える者達のために幾千回も「蘇る」だろう。




(当然世界 Twitter:@touzensekai)

何を「ぶっこわす」べきなのか?ー別の仕方で思考することー

【あらかじめの注意】
私は話も長ければ、文章も長い。その点お許しいただきたい。ただ本気で考えたいという人には是非読んで欲しい。前提としてこの文章を通じて私は個人の自助努力の次元や「就活」の方法論は問題にしていない。また、こういう制度にすればいいと言うことも書いていない。つまり、「問題は個人のせいなのか、社会のせいなのか、何を変えたらいいのか」というレベルでは論じていない。ここでは、あくまで「何が問題となっているのか」を「就活ぶっこわせデモ」の個人的な分析から提起し、そのために私は何がしたいのかということを「主張」している。「答え」ではなく「問い」を発したいと考えている。それを考慮していただいた上で読んでもらい、そして建設的な批判をもらえればうれしく思う。

※「主張」カテゴリーに分類される文章は実行委員一人一人の「就活ぶっこわせデモ」に対する思いや意見である。実行委員会の総意ではないことにご注意いただきたい。

※「追記」しました!下記の「続きを読む」からご覧下さい。

【本文】
「就活ぶっこわせデモ」がここ最近センセーションを巻き起こしている。Twitterの「就活ぶっこわせデモ」アカウントには非難・罵倒・意見・賛同などたくさんのリプライが来ており、「デモ 就活」でタイムラインを検索すれば、分単位で情報が流れている。これは最初の爆発的に拡散されたツイートとニコニコニュースや2ちゃんねるに取り上げられたことが大きな要因であるようだ。

ニコニコニュース
2ちゃんねる

しかしながら、なぜたかだか数十人の学生が「就活ぶっこわせ」を掲げ、デモをすると表明しただけでこれほどセンセーショナルになるのか。実のところセンセーションを巻き起こした段階では「就活ぶっこわせデモ」に関する情報はそれほど多くなかった。にもかかわらずこれほどの反響読んだからにはその現状分析が必要である。その上で、「就活ぶっこわせ」と言ったとき、何を「ぶっこわす」べきなのか、ということについての私の意見を書いてみようと思う。

まず、多くの反応は「就活ぶっこわせデモ」というこの一言、あるいはそれを含んだ1ツイートを対象にしていたことがわかる。もちろん、情報が多くない中でそこに非難が集まるのは当然ではあるし、インターネットの「炎上」と呼ばれる現象の構造からしても多くの情報が必要でないことは明らかである(インターネットにおける匿名の審判性について本稿では多くを語るつもりはない)。しかし、問題はなぜ「就活」と「ぶっこわせ」、そして「デモ」という単語が「炎上」の対象となるかということだ。

面白い事実がある。「就活ぶっこわせデモ」の実行委員会は「就活ぶっこわせ」という名称以前から活動しており、単に「就活デモ」と名乗っていたときにはほとんど反応がなかったということだ。したがって、「就活デモ」の実質はさほど問題ではない。つまり、「就活ぶっこわせデモ」という名称に何らかの構造が隠されていると推察できる。

ここから二つのことが考えられる。すなわち、第一に「就活」という概念は何らかの道徳規範と強力に結びついており、またそれ自体規範形成の作用を持っているということだ。多くの人が持つその道徳規範が破られた場合には「社会」によって裁かれねばならないとされる。第二に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉はそうした規範を逸脱する社会的な言説であり、行為であるという観念が日本社会を覆っているということだ。規範としての「就活」概念が「就活ぶっこわせ」という名称によって侵犯されたため、人々はネット空間において「社会」を形成し、逸脱者、侵犯者を制裁するために過剰に反応した。もし仮に「就活」概念が規範と無関係、あるいは重要な規範でないとするなら、それほど過剰反応する必要はないだろう。

では「就活」と結びつく道徳規範とはいかなるものであろうか。大きく分けて二つの規範が考えられる。一つには、多くの人が「大人」になるために通らざるを得ない社会的儀式(イニシエーション)が存在し、それを受け入れなければならないという規範である。もう一つには、「労働」とは賛美されるものであり、文句を言わずに励むことこそが美徳であるという規範だ。言い換えれば、「就活」概念は「大人」に向かう儀式プロセスとしての規範性及び、「労働は美徳である」というアイデンティティの規範性と結びついているということである。このことは「デモする暇があるなら就活しろよ」とか「そんなことせずに働け」という非難からもよくわかる。

また、「就活」概念そのものも規範であり、規範形成として作用するものだ。どのような規範かと言えば、どれほど提示されたモデルに自己のアイデンティティを近づけることができるかという規範である。もちろん、「就活なんて茶番だよ」と心の中で思っている人も多いだろう。しかし、この「茶番」とは「わかっていながらもやらねばならない」から「茶番」であり、かつみんなが「茶番」であることを知りつつも演じることで「茶番」は確固たる体制としての地位を得ることができるのだ。意識的にしろ、無意識的にしろ、モデルや規範に対する従順さが磨かれる。事実、「就活」を行う学生の意識はそれを終える前と後を比べると、後の方が圧倒的に「仕事に関する諦め感」が強まるという。要は、「就活」システムの規範形成としての意義とは、「就活」を単一の個人のアイデンティティとして埋め込み、「茶番」を「茶番」として諦める身体を増産することである。

では次に、「ぶっこわせ」と「デモ」という言葉が規範を逸脱するとはどういうことか。何を意味するのか。これには「政治的想像力」の問題が絡んでくる。少し考えてみよう。

一般的にいって、確かに「ぶっこわせ」というラディカルな言葉には規範に対して破壊的に働きかける作用を持つ。だが、それは実際に物理的・制度的な何かを破壊する行為とは明確に区別される。ごく単純な推論をしてみれば、「就活をぶっこわせ!」と言ったときに、企業の説明会に角棒を持って侵入して暴れたり、あらゆる就業の仕組みを立法権の行使によって制度的に廃止したりすることを意味しない。もっと簡単な例を持ってこよう。かつて自民党の小泉首相が「自民党をぶっこわす!」と言って党内改革に着手したが、これによって自民党はなくなっただろうか。答えは言うまでもない。要するに、「ぶっこわせ」というのは政治的・戦略的スローガンなのである(実際これだけ多くの人が関心を持ったのだからその効果は抜群であったろう)。

しかし、多くの人が「就活ぶっこわせ」と聞いたとたん、「拒否」反応を示した理由は、一つには「就活をぶっこわせ」という言葉の政治性を理解する「政治的想像力」が欠如していたことである。もう一つには、それが欠如してしまうほどに、「就活」アイデンティティが人々の思考・意識の中に強力な根を張り巡らされているということがある。これは本来「就活ぶっこわせ」という言葉は「就活」概念への直接攻撃なのではあるが、「就活」概念がアイデンティティとして内面化されている人ほど、自分という個人への攻撃と錯覚してしまうということだ。そして攻撃された(と勘違いした)自己を防衛するために「社会」というロジックを持ち出して反撃するのである。

では「デモ」という言葉はどうか。今回の事例では「デモ」に対して「ぶっこわせ」というラディカルな言葉が結びついたことによる反応もあったが(例えば「デモは支持するけど、名前は変えた方がいいんじゃないの」といった意見)、それ以上に「デモ」それ自体に対するある種の社会的な嫌悪感も見て取れる。例えば、「デモなんてやっても意味はない、変わらない」「デモは迷惑だ」「デモなんて恥ずかしい」等々。もっとも現代において「デモ」そのものの存在を正面から否定する人は少ないだろう。多くの人はわずかながらに受けた「民主主義教育」なるものによって「デモ」が憲法によって保障されていることは知識として了解している。

だが体験的に「デモ」を知らない、あるいはちらっと見たことがあるだけにすぎないという人が大半であろう(3.11以後徐々にその風潮は変わりつつあるが)。つまり、デモが実質的に遂行できる身体がないということだ(例えば、武器を知っていても、手にしたことがない人、訓練されてない人が戦争で十分に戦えないのと同様である)。

また、体験的に少しは知っている人も含めて、現在支配的な観念は、デモとは何かを変えるための「手段」である、というものだ。これは正しいとも言えるし、一方で間違っているとも言える。デモを「手段」とだけ見なす観念は「デモの目的は?」「その主張内容は合理的か?」「もっと明確にすべきだ」「ちゃんと組織しろ」「代案を出せ」といった言説を生み出す。しかし、「目的」「合理的」「明確」「組織」というのはあまりに一元的な運動のとらえ方であるし、明らかに懐古的で固定的な政治思考に基づいた発想である。2011年に世界中で起きた運動(「アラブの春」「OCCUPY WALL STREET」等)をみても、「デモ=合理的な手段」という構図だけではとらえがたい。

「デモ=手段」に過ぎないという発想は、デモを真剣に捉える姿勢というよりかは、むしろデモを予防的に抑止しようとする姿勢である。先に挙げたような、一見デモのことを真面目に考え批判しているように見える言説は、実はその言説の自己イメージとは反対に、「失笑」や「冷笑」に基づいた抑圧的な言説なのである。例えば、「代替案(対案)を出せ。それができなきゃ努力不足ではないか」という人がいる。しかし、仮にそれをすべての人に当てはめたら、デモの参加者はみんな学者のように理論武装しなければいけなくなるだろう。

もちろん、デモが「手段」であり「大義」を持つことは前提として存在する。もちろん、「私のために反乱せよ、万人の最終的な解放はそこにかかっている」とは誰も言えない。しかし、かといって「デモには意味がない」と他者に対してシニカルになると権利もない。そこには少なくとも圧倒的な事実あるのである。すなわち、「今の状態は少なからずおかしい」という意識が存在するということだ。したがって、デモを「目的」と「手段」の二項対立図式は、一見寛容に見せかけた、抑圧的で不寛容な態度なのである。

さて、長くなってしまった。そろそろまとめよう。この文章のタイトルである最初の問い、何を「ぶっこわす」べきなのか?そしてなぜデモをするのか、について私なりの意見を述べよう。

これまで述べてきたように「就活」とはある一つの就業に関する形態に特権的に与えられた名称であり、作られた規範的概念である(それを日本式便乗型産業が利用している。例:就活塾)。そしてシステムはその「概念」が人々の思考・意識の隅々にまで根を張り巡らせることによって、作動・機能する。この特権的に構築されたシステムはこれまでのところかろうじて機能してきたが、現状はそれを利用する企業(一部)や便乗型産業が利益を得るための道具と化し、一部の「超有能」人間と規格化された従順な労働者を増殖させるとともに、必然的に一定数淘汰される人間を「承認」も「保障」もないまま闇の中に放置し続けるという構造の悪循環を加速させている。この問題は単に大学生だけの問題というより、高校生、院生、ニート、フリーター、既卒者、非正規労働者、新入社員、若手教員、障害者、過労死するまで働かされる会社員などといった範囲まで射程に入れた全社会的な問題として出現しているのである。悪循環の中で生成されていくものは極度の「自己責任」論だけであり、一方で奪われるのは連帯と共生の他者感覚、他者とのつながりの中での自己決定権(「自己責任」と「自己決定」は全く反対のものである)である。様々な抑圧構造があったにせよ、「日本の古き良き」点さえもが「自己責任」によって侵食されているといってもいい。

こうした悪循環を別方向にずらしていくにはどうしたらよいか?思い出してみよう。システムを作動させるのは一つに思考・意識の中に張り巡らされた「就活」概念であると言った。だとすれば、まさに「ぶっこわす」のはこの特権化された、規範としての「就活」概念なのではないか?つまり、物理的・制度的「就活」システムの総体を変革するには、まずもってこの「就活」アイデンティティを、「就活」概念にまみれた思考を「ぶっこわす」必要があるということだ。「就活ぶっこわせデモ」の名前の意義はここにあると考える。

「就活をぶっこわす」ためのより実際的な過程は、制度的・非制度的な方法を用いた脱・構築を行い、「就活」概念を相対化、あるいは別のものへと解体することである。一言で言えば「脱・就活」の志向・思考を目指すということだ。そうした点こそ専門家や政治家、官僚はもとより、全社会的な関心を持って考えられるべき事柄である。この具体例を全部列挙することなどとうていできないし(できるとしたら何も問題は起こっていない)、それをするのは本稿の目的ではないが、あえて例を挙げるとすれば、制度的なもので言えば、ギャップイヤーの設置、新卒一括採用の改善など、非制度的なもので言えば、就業者向けの自発的で実践的な労働法研究サークルの結成などがあげられよう。

ただし、常に念頭に置く必要があるのは、こうした制度・非制度の構築には運動が並行する必要があるということだ。運動なしでの制度論は「御上の改革」に過ぎず、悪循環を繰り返すだけである。議論する俎上がないままでは、意識高い学生の知的談義程度でとどまってしまうだろう。デモは少なからず人々に応答する責任を与え、議論へ向かう起動力を持つ。だから、まずは「就活ぶっこわせ!」と叫んだらいい。そこでのつながりから制度的なものも、制度的ではない新しいものも生まれるのだから。

最後に「デモ」に関して述べておこう。ではなぜデモをするのか、それで世界は変わるのか?気を付けねばならないのは、こうした問いの建て方はそれ自体誤った結論を導く可能性がある。デモや運動は「意味がある・ない」「役に立つ・立たない」「変わる・変わらない」の二元論に簡単に還元されてしまう(まさにその思考が問題なのだ!)。だが、どこか遠くの「未来」にある理想の社会、あるいはユートピアを目指して変革の意志を持つ時代は終わった。むしろ、変革は常に、今ある「現在」を絶えず別の方向にズラしながら、拡張することによって行われると捉えた方がよい。その闘いの中で「自由」を「民主主義」の傾向を最も鋭くすることが「変革」に他ならない。

また、次のことも重要である。変革の対象は他者(あるいは大きな「世界」)ではない、ということだ。言い換えれば他者を変えることを運動の一義的な目的に据えてはならない。なぜなら、実際に他者が、世界が変わったかどうかなどは比較した傾向の中で把握できるだけであって、正確に計ることのできるものではないからだ。重要なのは現在の「おかしさ」からまず自己に対して働きかけ、ある既存のものへの拒否とそこからの自立/自律を促し、運動の中で実践することによって自己を変革することである。他者の変革は自己の変革の副次的、間接的作用として現れるだけである(もちろん、これは理念型である)。「自己が変わりうる」と目の当たりにしたときから、すなわち別の思考で生きることができると感じたときから、そしてそうした自己の集合が現れるときから、変革は始まるのだ。

以上、「就活ぶっこわせデモ」の分析とそれへの私の思いを書き綴った。意見があれば建設的な批判をお願いしたい(なお、より個人的なことが聞きたい場合にはTwitter等でどうぞ。)


杉本宙矢(Twitter: @uchunohate )

早稲田大学文学部四年


↓コメントや批判を受けて「追記」しました。

続きを読む

「就活ぶっこわせデモ」の理念

【就活ぶっこわせデモ理念】 

私達は現状の就活に怒っております。不満や苦しみを覚えております。なぜ在学中にも関わらず、勉強をおろそかにしてまでも企業研究や会社巡りに多くの時間と労力を割かなければならないのでしょうか?新卒一括採用といった現状の就活システムは今の日本の雇用状態にとって果たして適切なのでしょうか?就活にまつわる様々なしきたりや慣習に、合理的な理由はあるのでしょうか?私達はこれら不条理な就活システムと、「自己責任」の名の下に不景気のひずみを若者に押しつける社会風潮に対し、率直な怒りと疑問をぶつけるためデモを行います。


これは「内定くれよデモ」ではありません。私たちは、個人的な不遇不満を社会の責任とすることで、「可哀そうな我々に職をよこせ」と要求しているのではありません。私達はあくまで社会問題としての就活問題に対し異議を申し立てているのです。受け身ではなく主体的な気持ちから行動を起こしたのです。実行委員の中にはあえて就活をしないという道をえらんだ者もいることをここに付け加えておきます。


 では私たちがデモを行う目的とは何か。私たちは現状の就活に対する怒りや疑問を率直に訴えることで、「ここに問題がある」ということを社会に知ってもらいたいのです。デモを通じて、財界・政界・有識者たちに限らず、世間に幅広くこの問題を議論してもらうことを望んでいるのであります。そのため、私たちはあえて統一の主張や政策案などを持ちません。それは異なる考えや主張を持つ人々が、ひとつに集って声を上げるというデモ本来の力を弱めてしまうからです。まずは自ら声を上げること、それが今回のデモの目的なのです。
 

私たちは今回の「就活ぶっこわせデモ」が、皆さんとより良い就活、より良い社会について一緒に考えることができるきっかけになればと切に願っております。




早稲田大学 社会科学部 5年

小沼 克之

就活ぶっこわせデモ実行委員長

「就活」の民族誌(すずきおるず)

 この国では毎年、主に20代前半の青年の多くが参加する大規模な儀式が行われる。
 この儀式の参加者は、多くの準備を行わなくてはならない。まず、「マニュアル本」と呼ばれる経典を手に入れて、儀式の際に必要となる口上や動作を覚える必要がある。さらに、自分の経歴や性格などを書き出し、それらを経典に記されている「求められる人間像」と比較して自己批判し、自己を改革しようとする「自己分析」も、並行して行われることが多い。一部の「意識が高い」と称される人々は、「セミナー」や「インターンシップ」という儀式の事前練習に参加することもある。
 これらの準備を経て、いよいよ本格的に儀式が始まる。最初に、儀式への参加者は「エントリーシート」というものを書かなくてはならない。これは、参加者が自らの経歴や経験を誇張や美化して書くものである。「エントリーシート」の記入と前後して、参加者は「説明会」という集会に出席する。「説明会」では、「スーツ」という動きづらい儀礼用の衣服を着用しなくてはならない。黒の「スーツ」を着た人々が整然と並んでいる様子は極めて壮観である。「説明会」では、主宰者の話に熱心に聞き入っているフリが求められる。さらに、質問を求められた際には積極的に手を挙げて、周囲の人間に頭が良いと思われるような発言をしなくてはならない。
 「エントリーシート」が神意に沿うものと認められると、ついに儀式の主宰者と対話することが許される。この対話の形式には、様々なものが認められる。いくつか例を挙げると、参加者一人に対して複数人の主宰者が応対し、主宰者は参加者に厳しい態度で臨み、意地の悪い発言を繰り返し、揚げ足を取るなどして参加者のストレス耐性を見る「圧迫面接」、複数人の参加者がグループを組み、表面上は参加者同士で友好関係を築いていると見せかけながら、相手の参加者を蹴落とさなくてはならない「グループ・ディスカッション」などがある。
 これらの一連の儀式で認められた人々のみが、「社会人」として滅私奉公することを許されるのである。
 この儀式の名は、「就活」という。

 「就活」は今日、絶対的なものとして立ち現れている。「就活」をしても「勝ち組」になれる、すなわち「正社員」になれるとは限らないが、「就活」をしなければ「フリーター」、すなわち「負け組」確定であると。ここにおいては、本来は個々人の多様な価値観が反映されるべき働き方の問題は、勝ち組・負け組の二元論に収斂される。そして、「就活」はこの二元論を残酷なまでに体現している。
 この二元論的イデオロギーは、「普通」を志向するこの国の大衆心理や、「世間」や「迷惑」といった言葉が象徴するこの国の抑圧性に乗っかり、今や圧倒的な暴力性を示している。何が暴力的なのか。「他の選択肢が存在しない」こと自体が暴力的なのである。フリーターとして生きる人々が、「負け組」意識を強いられ、「負け組」として生きることを強いられている、すなわち勝ち組・負け組二元論の中で生きることを余儀なくされている、このことを暴力と言わずして何と言う。この問題の原因の一つは、明らかに「就活」にある。「就活」において学生は「勝ち組」になることを求められた結果、「勝ち組」となった学生は「負け組」を嗤い、「負け組」となった学生は諦めることを強いられる。
 「就活」を相対化せよ。「就活」の外部を希求せよ。

 ある事象を相対化するとき、前提として「その事象が事象として認識されている」必要がある。キリスト教が浸透していた中世ヨーロッパにおいて、キリスト教は絶対的なものであり、相対化することは非常に難しかっただろう。現代においても、フリーターの方の多くは「負け組」であることを受け入れ、勝ち組・負け組二元論に疑問を持たない。学生も同様だろう。
 事象として認識させるには、どうすればよいか。「異質なもの」として突きつけるに限る。第二次大戦後の植民地独立運動も、男女同権運動も、最初は「異質なもの」として突きつけられた。しかし、今ではこれらに対して大っぴらに反対する人は稀だろう。
 幸いにして、デモはこの国では「異質なもの」と見られる傾向がある。上等。その異質性をも以って、「異質なもの」を突きつけてくれよう。「就活ぶっこわせデモ」という名称についても同様である。挑発的な名称が功を奏したか、Twitterをはじめとするインターネット上で見る限り、既にある程度の規模の議論が発生している。「就活」を事象として、議論の対象として認識させるという目的は、それなりに達成されている。
 「異質なもの」を見よ。

 「就活ぶっこわせデモ」実行委員会は、問題意識(就活に対する疑義)と手段(デモ)においてのみ、一致を見ている集団である。例えば11月1日のヤナウェーブ研氏の書かれた記事と拙文を比べても、意見の相違があることは明白であろう。
 「就活ぶっこわせデモ」は、意見の違いを排除しない。就活に対して疑問があり、デモという手段を取ることに賛同される方は、ぜひ実行委員会に、あるいはデモに参加していただきたい。就活には疑問を感じるが、デモという手段には反対される方も、ぜひ独自の活動を起こされることを切に望んで、筆を置かせていただく。

すずきおるず
@suzukiorz on Twitter
続きを読む

就活デモと反響に対する個人的見解(ヤナウェーブ研)

皆様こんばんは。ヤナウェーブ研と申します。
ヤナウェーブ研究所という団体の所長をやっていまして、今回は就活デモの実行委員に誘われました。
都内私立大学3年生でこれから就活です。

さて、リーダーの小沼さんから頼まれたので記事を書きますが、個人的見解を述べさせていただくので若干主催者の意図とは異なる可能性があることを御承知ください。

先週の土曜の第一回実行委員会でデモの方針などを決めて、本格的に宣伝も始まりました。
主にツイッターアカウントhttp://twitter.com/#!/syukatsu_tokyoにて広報が行われているようですが、なかなか広まってきたようです。
昨日は2ちゃんねる系まとめサイトのハムスター速報さんにスレッドが載り、大反響でした。
今日もニコニコニュースに取り上げられるなどオタク界隈で盛り上がっています。

覗いてみると誹謗中傷の嵐。でも私も昔は2ちゃんねらー(もう古い?)だったのでコメント欄でしばらく釣りを楽しみましたw
すると勝手にファビョって暴言を吐いてくる人や、応援してくれる人で賑やかになりました。ありがとう。

まあ所詮2ちゃんねるなのでほっといてもいいんですが、私は彼らこそ就活デモに必要な人達だと思うので彼らの意見にも耳を傾けたいと思います。

まず「就活ぶっこわせ」という名称についての批判が多かったです。
「ぶっこわしてどうするの?」「いつもの過激派だろ」「キチガイ」などの意見をいただきました。
名称の決定は実行委員会で行ったのですが、インパクト重視、ノリの良さで決まりました。
正直無理だった。
自分たちはそれで燃えるかも知れないが、傍から見たらタダの憂さ晴らしですよ。
「就活に物申すデモ」とかの方が私はありだと思いました。
あと古い左翼過激派集団とは関係ありません。むしろ奴らは邪魔者だと私は思ってます。

次に「結局自分たちが内定でなかったり就活したくないから駄々こねてるだけじゃないの?」というような意見。
参加者それぞれに聞いてみないとわからないですが、内定持ってる人もいますし、自分を含め参加者のほとんどは就活します。しないと批判もできないですから。
低学歴とかも言われましたけどMARCH以上も多いです。見てもないのに決めつけるのはよくないですよ。

そもそも目的がよくわからない。馬鹿じゃないの?という鋭いお言葉も。
主催者曰く「就活に苦しめられている学生がいること、ちゃんと声をあげている学生がいることを知ってもらいたい」とのことです。
ただ結局そこでどうして欲しいのかということは、参加者により異なります。
私の意見は、就活の開始時期を遅くすること(少なくとも4年次開始)、エントリーシート(履歴書)の見直し(手書き強制や写真添付などの廃止)、新卒一括採用の見直しなどの要求です。

今回の件で感じたのは、日本人のデモという表現手段に対する異常なまでの嫌悪。「デモ」という単語が生理的にだめみたいです。
デモというと海外の暴動や、昔の全共闘時代をいまだに想像してしまうからのか、そもそも語感がだめなのか。
ただ、そもそもの原因は「デモしても何も変わらない。」という無力感と、「デモは迷惑行為である。」という日本人特有の変な道徳観にあると思います。
そこでどうやって理解を得るのかが課題だと考えます。
今日は以上。ありがとうございました。
                                
                               ヤナウェーブ研@Twitter

ヤナウェーブ研究所と週刊ヤナウェーブ編集部のブログもあります。見てください。
ヤナウェーブ研究所
プロフィール

「就活ぶっこわせデモ」実行委員会 (就活デモ@東京)

Author:「就活ぶっこわせデモ」実行委員会 (就活デモ@東京)
 こちらは2011年「就活ぶっこわせデモ」のブログです。私たちは2011年11月23日(水・祝)、勤労感謝の日に「就活ぶっこわせデモ」を実施致しました。当日はたくさんの方々にご参加頂き誠にありがとうございました。実行委員一同より厚く御礼申し上げます。
 このデモを通じてより多くの方々に就活を巡る問題について考え議論する機会、あるいは就活に疑問を持つ方々が改めて自分の意見を主張する場を提供できたのであれば、それだけでもこのデモを行った価値はあったものと私たち実行委員は考えております。

 さて、2011年市井の皆様を度々お騒がせしてきた「就活ぶっこわせデモ」ですが、2012年1月18日の対談イベントを最後の活動とし、我々就活ぶっこわせデモ実行委員はひとまず解散致します。ご協力下さった関係者各位の皆様方には、この場を借りて厚くお礼申しあげます。本当にありがとうございました。
 今後就活問題に関する活動は「就活生組合」がその任を担っていく予定でございます。よって今後の活動ついてのご質問、及び取材依頼等のお問い合わせは、「就活生組合」方にお願い致します。


就活生組合

http://www.shukatsu-union.org/

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